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父のこと
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東京の家の近所の神社の松の木です。この松の木のようなパートナーと巡りあいたいと祈っていたら、チェンマイの家には松の木が7本はえていました。心強い用心棒です。

20Aug2007

 チェンマイに移住して1年半、これから、この日記でも追々書いていきますが、 やっとこの地で何をすべきかが観えてきたので、こういう人生の転換期にこそ、家族の問題に立ち帰る のはいいことだなと思い、今回は2004年11月に亡くなった父のことを。なぜなら、私達は、所詮ご先祖様 が今までしてきた範囲の中で動いているにすぎないと気がついたからです。

例えば、ここ何回か、この日記に書いたように、預言者の言葉を受け、各地に行き、力を授かり、流れついた場所で、伴侶を定め、その地域の神様を崇め、その地域の人に協力していただき、元来た場所にもパワーに送る、そしてその地域で大事にしていただけるような子供を育てる、これは古事記や日本書紀に書かれた神話の世界を現在に置き換えたのと同じです。その昔、大和朝廷は他の民族と違って、征服による
平定ではなく、朝廷から使わされた人間がその地域の人間 と婚姻を交わし、その地域の神を祭り、製鉄や製塩技術、農業をもたらしながら、勢力を広げていったと 聞きます。
正に「和」を尊ぶ方法です。これから、国境を無くし、様々な民族が協力し合い地球のために働ける状態に
するには、その「和」による日本のご先祖様の方法がとてもいいのではないかと思います。状態はゆっくり
しか変わらない ですが、どうやら私は、それをやってみるつもりで、タイに来たようです。

 さて、壮大な神話ロマンは置いておいて、小さな、血を分けた家族の世界の私の父についてです。私の父は本当に どうしようもない人でした。母方の親戚に借りた借金は返さない、週末はいつも酒に酔って、頻繁に母に暴力をふるう、 レコードをかければ、大音量で近所に轟かせ、「私を見て」と不必要に自分を誇示しました。今こうして彼の悪行 ぶりを並べると、それほど大したことはない気もしてきますが、子供の私と弟には大変な恐怖の存在でした。やがて、私 が成長し、高校生、大学生になると、恐怖が軽蔑に変わりました。
普段は威張っているくせに、イザという時逃げる。 ”ポイント外し”とみなして、いつも父に対する軽蔑をあらわにしていました。そんな父に対する考えが変わってきたのは、私が 就職してからです。前にもお話しましたが、私は 大学を卒業して、財閥系の商社に就職しました。母方の代では祖母の父、つまり、曽祖父と
祖父の二人が既に その会社でお世話になっており、私で三代目でした。就職の人気ランキングの高い会社であるにもかかわらず、 そして、各方面の方々にお世話になって入れていただいたことに感謝をせず、
「やりたいこと」が見つからないので、お茶汲みしながら 社会勉強でもするかと見くびって入社しました。
ところが、直接指導に当たってくださった、上司があまりにも優秀な方 だったので、御見それし、その後約
9年間も置いていただくことになりました。その9年間には不注意から、入社一年目にして スキーで骨折したり、デザイン業界への転職を夢見て夜間のデザイン学校に通い、寝不足から居眠り運転を起こし、大事な
決算に出勤できなかったりと、上司や、一緒に働いていた方々に多大なご迷惑をおかけしながらも、暖かい心で 支えていただいたので、そこで身につけた、実務経験は、後にアメリカの会社に転職した際に、とても役立ちました。余談ですが、 私の経験から言うと、英語は下手でも、外国人のボスは日本の市場に関する知識を必要としているので、辛抱強く話しを聞いてくれます。外資系に転職するなら何といっても、実務経験とやる気です。話は戻って、財閥系商社に勤務をしている間に 見聞きしたことから察するに、北海道を出て、東京の大学に通い、同じ財閥系の繊維会社に勤めた父にとって、東京は 正に、「生き馬の目を抜く」都会で、そのような大会社に勤めるということは、勝手が違い、大変な努力を必要と することだと気づきました。北海道から東京に出て丁稚奉公をした後、北海道に戻り呉服屋を開いた祖父の家に とって、大会社に就職して、業界で憧れの存在の人の娘をお嫁さんにもらい、仲人に当たる 上司の下で、外国の会社との技術
提携等の任務に当たるということは、故郷に錦を飾る、自慢の息子だったと 思いますが、その状態を維持
するには多大な努力を必要としたに違いありません。私は代々サラリーマンであった 家族に生まれ、親たちの話を聞き、家に祖父が現役時代にご一緒していた方がいらっしゃったり、外国人のお客 さんがあったりと、子供の時から、その世界を観ていましたから、何となく、何処まで羽目を外していいかは分かって いましたが、父にとっては初めてのことばかりです。きっと父は東京に出てくるまで、外国人は、恐ろしい進駐軍しか 接したことがなかったんじゃないでしょうか?  本当に社会で働かせていただくのは素晴らしいことで、学生の身では分からなかった、家族のことまで、認識を 改められたのでした。

その父と決定的に歩みよれたのは、父の最期の時でした。この日記で頻繁にお名前を出させて いただいている、宮司で易をなさる弘祥先生に初めてお会いした時に、父の死期が近いことを教えていただいたのです。 そして、「ご実家の地元の神社にお参りに行って、神様にお祈りなさい。寿命でなければ、延ばしてくださるし、寿命 だったら、楽に逝かせてくださる」とおっしゃったので、翌日に、ココだ!と見当をつけていた神社に行ってお願いしました。 それから入院中の父をできる限り見舞いました。ある時母の代わりに、父の検査の結果を聞きに参りました。お医者 様にお会いする前に、父の病室に立ち寄ると、父は昏睡状態のようで、目を覚ましそうな気配はありませんでした。 検査の結果は大腸にできた癌が肝臓まで進み、治療の方法はなし、もって2,3週間ということでした。最期に「現在昏睡状態のようですが、あのまま目を覚ますことはないのですか?」と私が伺ったところ、検査のための 麻酔が効いているので、眠っているだけだとのことでした。ただし、肝臓の機能が落ちているので、普通の人と比べて 麻酔が抜けるのに時間がかかり、2日くらい寝続けるのではないかとお答えになりました。ところが、お医者様のご説明 の後に父を見舞うと、父が懸命に目を開こうとし、「死ぬための試験を受けてきました」と言うのです。「今まで どうもありがとうございました」と続けました。それから、次のくだりを述べるには未だ赤面せずにはいられないのですが、 「純子のことがとても好きだった」と言いました。その言葉を受けて、「私もよ」と言った私に我ながら驚きました。すると、
「こーんな親父」と言い、悲しくも深く反省しているのが、観てとれました。その時私は、彼はかわいそうな人生の出発を してしまったから、まわり道をしてしまったのだなと思いました。父の家は家業が忙しく、祖母に育てられたのではなく、最初は 父の叔母にあたる人に育てられ、寂しい幼児期を過ごしたそうなのです。
恐らく、祖母は父がお腹の中にいた時から、 余裕がなく、私が整体で習ったように、お腹の中にいる間に
赤ちゃんに注意をかけるということをしていなかったのでしょう。 野口整体を始められた野口春哉先生は著書「誕生以前の生活」で意識以前の教育を受胎したその時から始める べきだとおっしゃっています。意識以前の心が豊かに育てられた赤ちゃんは持って生まれた人格とか徳を身につけて その後の人生をやっていけるのだとおっしゃっています。私の父はその意識以前の教育が不十分だったために、必要 以上に他人の注意を喚起しようとし、人から疎まれたり、煙たがられたりしたのだと思います。もちろん、人はこの世で 修行をするために生まれてきたのですから、どんなに大変な出発点からでも、充実した人生をおくれる人はいると 思いますが、それにしては、私の父は、自分に甘く、修行ができなかった「こーんな親父」だったのです。私は父のような子供を次の 世代に増やしてはならないと思いました。この世にはやらねばならないことが沢山あるのですから。そんな所で留まって いるべきではありません。父の失敗を踏まえ、私の代からは「意識以前の心を豊かにすること」は親の義務だと考えたい と思いました。

それに最も障害となるのは、夫婦が協調できないことだと思います。夫婦での議論は良いけれど、 喧嘩は避けるべきです。日本人は議論の非常に苦手な国民だと思います。アメリカの会社に勤めていた時に、 アイルランド人のボスと営業で、お客さんである銀行を回りましたが、日本語ぺらぺらなボスが英語のpardonに 当たる言葉「何ですか?」と言うと相手は震え上がるのです。日本語で話しているのにです。言葉を尽くして相手と 理解をし合うように努める下地がないのです。日本で、相手に「分からない」と言うことは、「私は馬鹿でわからない」 か「あんたの馬鹿な説明ではわからない」と意味しているのと同じです。それゆえ、普段は分かったふり、知ったふりを して、積もり積もった不信感から突然喧嘩を起こします。私の弟も外国人と結婚していますが、弟夫婦を見てよい と思ったのは、「相手が分からなくてあたりまえ。分かったらラッキー」という前提で会話をしているのです。日本人同士の 夫婦でも、全然違う家庭で育ったのですから、「分からなくてあたりまえ」だと思います。夫婦喧嘩は実は仲のいい、 相性のいい夫婦が続けるのかもしれませんが、子供の私には分かりませんでした。いつも家に入る前に、ドアに耳を 当てて、家の中の空気を推し量ってから、慎重に入りました。両親の家は安住の場所ではありませんでした。そして 夫婦不仲の影響は子供にはとても大きいです。私は父に対する不信感から、世の中の全男性に不信を抱いていた と思います。離婚をしたのも恐らくそのせいでしょう、そして、再婚ができたのは父と良い最期を過ごせたからだと思います。

父への不信感は、私の観方が間違っていたのと、母親のすり込みです。母親は自分のお腹から生まれた子と自分が 区別できにくく、すぐに子供を自分の思うとおりに動かそうとしてしまうところがあります。 夫婦
喧嘩を繰り返していたウチの母はいつも私達子供に「お父さんは悪い人だ」という意識を植えつけました。
ですから、夫婦喧嘩の時はいつも、父対他の3人の家族の喧嘩に発展しました。母親が自分の子供を支配して、手下に してしまう時は社会性のある父親が子供の独立を守ってやらなければならないのですが、気の弱い父は家族に理解されない 悲しみから、家に戻って来るのを避けたのです。そして、いつも家族と一緒の時は酒をあびるように飲みました。

私が 母親の支配に気づいたのは高校生の時で、ある時自分が友達に言いきっている意見が自分のものではなく、全くの 母の受け売りであることに気づいたのです。背後霊の存在に気づいたのです。そこで、シェルターである祖父母の家に 逃げ込んだのです。それでも、背後霊を払うのには相当の月日がかかりました。私は32歳の時離婚をしましたが、その時 に、やっと払えたと思いました。世間体を重んじる母は父より私の離婚には反対でした。「お母さんは子供の私が こんなに嫌がっている結婚を世間体のために続けろというのか?」と朝の5時から議論しました。その母が相手に離婚届の サインを求めて、私を離婚させてくれた時に、やっと支配関係は終わり、同等の大人の関係になれたなと思いました。

この日記を読んでいる方で、目下、お母さんの支配下にいるのでは?と気づかれた方はいらっしゃいませんか? 私は前に師事していた整体の先生に素敵なお話を聞きました。「山で猟をしたり、炭をやいたりするマタギと呼ばれる 人々は家族の結びつきが強く、母親はたとえ子供が遠く離れていても、怪我をしたり、傷ついたりした時には 自分のことのようによく分かる。でもその子供が初恋をした後は分からなくなる。」子供が大人になったら、お母さんは 子供のことを分からないんです、分かってはいけないのです。 「あなたが言ったから」(責任転嫁)や、「あなたのために」(押しつけ)などという言葉が怪しいです。そういう言葉を受けた 時は「とてもありがたいのですが、私は一人で考えて、一人でできます」と言って払いましょう。

私は14年もかけて、支配を断ちましたから、並大抵では払えません。時に目先を変えに、チェンマイの私の家にいらっしゃいませんか?東京の品川区には素晴らしい ボランティアサービスがあって、「品川宿おばあちゃんち」という、子育てに困った時に、実家のように子供を連れて、相談にのってもらえる、子育て交流ルームがあると聞きましたが。チェンマイの私の家は「おばちゃんち」です。 タイ人夫の収入で暮らしているので、残念ながら、日本人の皆さんをただで、お招きすることはできません。家の敷地内には、 母屋と別棟になった家があります。そこに泊まりながら補修作業を手伝っていただけませんか?、一緒に体を動かしながら今後 の人生を考えていきましょう。私はこれから、子供を3人生みたく(整体では子供は3人以上がいいというので、どうして良いのか 調べてみたいのです)子育てをしながら、大きなプロジェクトを始めたいと思っていますので、手伝っていただけませんでしょうか?

夫も夫の友達のタイ人も先の戦争のお陰で、日本人は親切そうにして、やって 来るが、結局の所、化けの皮を剥がして、自分達を利用したり、自分の国を乗っ取るつもりではないか?とまだまだ疑って いますが、これはご先祖様の残した負の遺産です。私達は正の遺産も享受しているのですから、一緒に浄化しましょう。 私達日本人がいかに私利私欲から離れて、世の中のために働くことを喜びとするかを分かってもらいましょう。私が銀のお守り を売って、食べ物は提供します。ゆくゆくは現地のタイ人並みの賃金を払えるように組織を作りたいのですが、ワークパーミッションと いう難しいハードルを乗り越えるための準備と資金ができていません。 気持ちが少しでも動いたら、メールかskypeを使って連絡ください。いらしてもいいですし、いらっしゃらなくても全然かまいません。 一緒に不安をひとつずつ解消しながら、何かを始めましょう。



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